粗食について書こうとしたきっかけについて
前回の続きです。
今回こそ最後です。
私自身は、何度も書きますが、季節を感じるような食事は好きですし、その文化も今後も続いて育まれていけばいいと思います。
ですが、私が否定するのは、「粗食が一番だ」「粗食こそ、日本の理想であり、美学だ」というような主張をするための手段として用いたり、不思議な思想を掲げる人です。
文化としてはとても良いものであり、好ましくも感じます。
ですが、これが理想なのか?といわれると、「勝手に決めつけなよ」「お前は日本代表か?」と思ってしまいます。
残念ながら、こういった考え方を著名人が行っているから、とても厄介だと思っています。
粗食を訴えるのは自由ですが、時代は大きく変わっています。
当時としては選択肢がそれしかなかったかもしれませんが、今は多様性に富んでいます。
それぞれの良い所を学び、状況に応じて良い所を選択すればいいと考えています。
私は、色々な方法論があるので、それぞれのメリットデメリットを明確にし、状況に応じて選択できるような引き出しを増やす事が、栄養士として必要な事であると考えています。
共存共栄というような考え方になるでしょうか?
ですが、私が否定するのは、一つの方法論を「宗教化」していると感じるように扱う事です。
宗教となれば、その信仰の対象となるものを否定しなくなります。
「本当に正しいのかな?」というような疑問を、一切感じません。
「私は、あなたの考えを受け入れます。」までならまだ良いのですが、「あなたの考え以外を受け入れません」とか、「あなたは絶対的なので、他のは排除します」となりやすいのも宗教です。
宗教戦争は、昔から続いていて、今も小競り合いは起きています。
意見のぶつかり合いにしかならないからです。
こういった歴史があるにもかかわらず、「粗食サイコー。他のは受け入れねー。」という唯一無二、理想であるとするスタンスでは、時代遅れですし、話しになりません。
私は色々な書籍を参考にすべく、目を通していますが、ある書籍の一文が、とても引っかかりました。
この一文があったからこそ、私が粗食について文章を書きだしたといっても過言では無いです。
「一汁一菜とは、ただの「粗食献立のすすめ」ではありません。一汁一菜という「システム」であり、「思想」であり、「美学」であり、日本人としての「生き方」だと思います。」
たまげました。
私が理解できるのは、「システム」までです。
「思想」で、ギリギリです。
「美学」はグレーゾーンですね。
「生き方」までいったら、余計なお世話です。
なぜ、生き方まで押し付けられないといけないのか?
私には理解できません。
先にも書きましたが、生活スタイルは、昔と大きく変わっています。
一日に必要なエネルギー量は、かなり減少しました。
平均身長も、江戸時代は155㎝くらいだったのが、今では170㎝くらいに上昇しています。
平均寿命も、江戸時代では45歳くらいなのが、今では80歳以上になっています。
(医療の発達や戦争による影響はあるのは当然ですが)
粗食しかなかった生活から、多様化した生活になる事で、このような恩恵を多く得られている現状があります。
この変化は、私自身は好ましいものとして捉えているので、「恩恵」という書き方をしました。
粗食が良いという人は、こういった変化に触れようとしません。
ただただ、回顧・原点回帰のような理想論を展開し、「粗食が日本人としての生き方である」とするのは、暴論だと感じてしまいます。
粗食を行なう事で、平均身長が低下するような可能性が高くなるのですが、それが理想なのでしょうか?
消費エネルギー量が少ないにもかかわらず、大量の糖質を摂取し、生活習慣病・糖尿病リスクを高める事が、生き方なのでしょうか?
「料理研究家として、日本の伝統的な食の知恵に驚き、知れば知る程、日本人の感性の豊かさに驚き、現代社会に家庭料理の変化を感じ、未来の事を考えるうちに一汁一菜でよいという考えに至りました。」
「一汁一菜でよいという提案」こそが、日本の家庭料理の最善の道と考えるようになったのです。
いったい、この著者に何があったのでしょうか?
現状を嘆いたのかもしれません。
私も見ていて、「こんな感じで食事を済ませてるの?」と感じるような内容には触れた事があります。
だからと言って、理想論を掲げるつもりはありません。
ましてやその方法論を美化させたり、思想化させる事もありません。
その食事内容のメリットデメリットを伝えて、デメリットを小さくしようとするだけです。
その人の生活スタイルがあるわけですから。
「暮らしにおいて大切な事は、自分自身の心の置き場、心地よい場所に帰ってくる生活のリズムを作る事だと思います。
その柱となるのが食事です。
一日、一日、必ず自分がコントロールしているところへ帰ってくることです。それには一汁一菜です。
一汁一菜とは、ご飯を中心とした知ると菜(おかず)、その原点を「ご飯、みそ汁、漬物」とする食事の型です。」
さも、これが答えだと言わんばかりに「一汁一菜」を取り上げていますが、どうなのでしょうか?
前半部分は分かりますが、「それには一汁一菜です」と主張されても、同意しかねます。
私自身は、この理論展開を支持する事が出来ません。
理由は、
「 一汁一菜 = 健康食 」
だと思えないからです。
「 一汁一菜 = 文化食 」
ならば、同意できます。
理想論・精神論ばかりを前面に押し出し、その結果どうなるかについてが全く語られないのは、理論として成り立っていません。
この文章がブログや趣味で書いてあればここまで反発・追求はしないのですが、著名人が主張しているので、質が悪いです。
根拠もよくわからない思想が、多くに広まってしまう可能性が非常に高いからです。
料理研究家だから、勝手に研究するのは構いません。
ただ、主張するのであれば、料理を取り巻く周囲の環境の変化にも触れないといけないのではないでしょうか?
その時代にあった料理と主張するのであれば、時代背景についても調べるのは必須だと感じます。
もっと言うと、「理想」は、手の届かない所にあるから「理想」です。
それを強引に引き寄せようとしても、思わぬデメリットやバランスの乱れが生まれる可能性が高いのは、歴史も証明しています。
政治の話はしたくないですが、「社会主義」がそれにあたると、私自身は考えています。
これまで、粗食について語ってきましたが、そのきっかけとなったのは、前述のとおり
「一汁一菜とは、ただの「粗食献立のすすめ」ではありません。一汁一菜という「システム」であり、「思想」であり、「美学」であり、日本人としての「生き方」だと思います。」
の一文です。
そこから
「粗食ってなんだ?」となり、
「粗食はどのように推奨されているんだ?」となり、
「粗食ってルール化されてなくね?」となり、
「粗食って、理論もめちゃくちゃじゃね?」と感じるようになってしまいました。
今回は、あくまでも「私が調べた範囲内」で受けた粗食のイメージについて話をしていきました。
ですので、粗食推進側にも存在するであろう「メリット部分」がもっとあったと思いますが、私自身は見つける事が出来なかったため、これまでのような書き方をしてきました。
これから色々なものに触れ、そのメリット部分を知る事が出来たら、また語っていきたいと思います。
まだ続くと思いますが、今回はこれで幕としたいと思います。
お付き合いいただき、ありがとうございました。
次は、何について書こうか?