知識や知識を基にして得た経験・体験は強い味方となる
前回の続きです。
食べ物を食べての「罪悪感」「背徳感」は何故起きるのか?という事の続きです。
前提を述べておきますが、ここでは「自傷行為」は除きます。
ただ、文中の
現実逃避の手段
何か非常に困難な事象にぶつかった場合、自分を切ることによってその現実に一時的に対処する際に用いる。
例えば、両親の不和や自分に対する虐待などで「親を愛することができない自分なんかいらない」と自身が認識した場合や、自分のことが原因で友情にひびが入った場合「自分なんかいなければよかった」と思ってしまうケースなどがこれに当たる。
この場合、罰せられることによって「許し」を乞うているとも考えられる。しかしながら、それによって本当に許しが得られるわけでもなく、常習化が進んでしまうとされる。
これは該当するかもしれませんね。
ストレス等 → 現実逃避としてガンガン食べまくる(過食) → 体型の変化等から生まれる自己嫌悪
というのは良く耳にしますから。
とりあえず本題に入ります。
「知識」というのはとても重要です。
それを知っているかどうか?
それだけで、自身の生命を長らえる事も出来ますし、情報強者として相手を心理的に操作する事も可能です。
ですが、江戸時代ではそのような知識はありませんでした。
そして、分からないからこそ、日本では「虎狼狸(コロリ)」という妖怪が原因と考えられ、近づかないようにお札のようなものを張りまくったり、上記のような眷属信仰が生まれたりします。
皆さんは、「祈る」という状況になった時は、どのような時があるでしょうか?
望むような結果になるようだったり、何かしらの「恐怖」に対して、それを起こらないように・避けてくれるようにと祈る事もあるのではないでしょうか?
何かしらの結果が起きるのは、何かしらの原因があります。
その原因を知っているかどうかで、心に平穏をもたらし、脳内の問題意識を小さくしてくれます。
さて、これを食事・健康にあてはめていきます。
罪悪感・背徳感が生まれるというのは、
「自分にとって悪い事をしている」
という事を理解している訳です。
「これを食べると、絶対こうなる。でも、食べたい。」→「やっぱりこうなった!ダメだ~~!!」
という感じです。
そして「罪悪感・背徳感」を抱く人の思考の多くは、ここで終わると感じます。
望まない結果となるのであれば、それを避ければ良いのですが、我慢しきれず食べてこうなった。
途中の感情はともかく、何かしらの行為をしたら、こうなるという結果は知っている訳です。
それ以降、どうするか?という事で、今後が大きく変わるのですが、ほとんどの人は現状維持の人が多いです。
何かしらの対策をしようにも、始めるキッカケが状態の変化が大きくなってからであったり、年に一回の健康診断の数字をみてからという場合であったり、何かしらの疾病の診断が下されてからという場合が多く、そのためには大きな変化を与えないといけないのですが、それを嫌い現状維持を望んで、たいして効果も得られない手軽な方法ばかりを選択しがちです。
結果、自分がどんどん望まない結果に進んでいくわけです。
何も自身に変化を与えず、欲望のままに進んだら、もたらされるのは望まない結果となるのは、当然です。
その結果で、「〇〇になってしまった。もう駄目だ~」と言われても、「そらそうよ」となるだけです。
勉強しないで、高いレベルの志望校や試験に合格出来ないのと一緒です。
変化を継続していければ、そして変化の幅が大きいほど、目に見えての変化・効果を手に入れる事が出来るようになります。
横道ばかりで少し長くなってきた。
続きます。