粗食についての所感のまとめ
前回の続きです。
粗食ダイエットという考え方について、否定はしませんが、ルールとしてはとても成り立っているとは感じにくいものでした。
少なくとも、私がみたサイトの中ではですが・・・。
粗食というのは、日本が生み出してきた食文化の一つであると感じます。
ですので、例えば朝食にそれを取り入れたり、例えば、七草がゆや節句の料理のように、季節ごとに取り入れて旬を楽しむというのであれば、とても良い考え方であると感じます。
ですが、ダイエットとして、しかも長期的に用いるという事であれば、話しは別です。
内容を見る限りでは、残念ながらダイエットに繋がると感じにくい内容としか思えませんでした。
文中では、さかんに「健康的」「体にやさしい」とか、「ゆっくりと確実にダイエット」という話をしていますが、その定義がとてもあいまいです。
「健康的」
健康そうに見えるさま。心身の健康に役立つさま。
「体にやさしい」
負担が少ないという意味でしょうか?
必須であるたんぱく質や脂質を積極的にとらないで、たまに好きなものを食べる暴食をする事が、負担が少ないのでしょうか?
「ゆっくりと確実に」
どれくらいのペースでやせていくのかという表記が無い。
基本無期限。
ちなみに、私の考える健康の定義としては、
「日々の生活において、何かの活動を行う際に、高いパフォーマンスを発揮できる状態」
と位置付けています。
あと、文章の最後には、
「粗食ダイエットは食生活の見直しが基本。カロリーを減らすというよりは、健康的な食事をするというのが主な目的となるため、成果はすぐには出にくいかもしれません。
しかし、長いスパンで行っていくことで健康的に体重を減らすことができるのが大きなメリットです。
ただ痩せたいのではなく、食生活や体調も改善したいなら、ぜひこのダイエットにチャレンジしてみてください!」
とあります。
食生活の見直し
健康的な食事を続ける
健康的に体重を減らせる
そういった事が見込めるため、
痩せたい
同時に食生活や体調も改善したい
という人は、このダイエットにチャレンジ!
という事でしょうか?
一つ気になる事があります。
「 健康的な食事 = 粗食 」
という方程式が成り立っているのかどうか?
についてです。
そもそも、「健康的な食事」とは、何だろう??という事について、全く語られていないです。
「玄米はその固さのため咀嚼回数が増えて満腹感につながるのも利点ですが、栄養価が優れているのもポイントです。
このダイエットにおいては玄米をベースにすると効果が高まります。」
そのように表現していますが、このダイエット方法については、恐らく玄米は必須に近いと感じます。
タンパク源摂取機会が少ないため、ビタミン摂取の大きな部分を占める事になるからです。
昔、江戸では白米が主流となりました。
他の地域は玄米でした。
全国で一汁一菜のような生活をしていましたが、当時、江戸だけで「脚気」が流行しました。
「脚気」
ビタミン欠乏症の一つであり、ビタミンB1(チアミン)の欠乏によって心不全と末梢神経障害をきたす疾患である。
心不全によって足のむくみ、神経障害によって足のしびれが起きることから脚気と呼ばれる。
白米は、チアミンの含有量が玄米よりも少なくなります。
脚気患者が、治療のために江戸を離れると治った事から、「江戸患い」とも言われていました。
「江戸を訪れた地方の侍や大名を中心に、江戸に行くと体調が悪くなる、足元がおぼつかなくなる、怒りっぽくなる、場合によっては寝込んでしまう者が続出。
侍たちが故郷へ帰るとケロリと治ったことから「江戸煩い」と呼ばれる病が流行りました。」
また大日本帝国時代、海軍と陸軍で別の食料を採用されていました。
海軍では麦飯を、陸軍では白米を支給しました。
結果、海軍は1883年の23.1%の発症率を2年で1%未満に激減したが、陸軍では『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』によれば、死者総計の約2割、約4000人が脚気が原因であり、その後も脚気の惨害に見舞われた。
こういった事からもわかる様に、この「粗食」という考え方だけで食事を行なうというのであれば、白米ではビタミンが十分に補う事が出来ないという事が、歴史上からも証明されている訳です。
「玄米をベースにすると効果が高まります」
では、ありません。
「玄米をベースにしないと、健康被害を被る可能性が高まります」
と表現しないといけないと感じるのは、私だけでしょうか?
当時は、多くの人が脚気により命を奪われています。
このやり方が、「健康的」なのでしょうか?
私の目から見たら、「粗食ダイエット」という方法は、非常に危険な手法の一つだと感じます。
まぁ、ルールが細かく設定されていないため、言及は出来ませんが、非常に無責任であるとは感じます。
これだけの危険性に全く触れず、「健康的な食事であるかのようなイメージだけで」話をしていますから。
今回で終わるつもりでしたが、もう少しだけ話したい事があるので、次に回します。
次こそ、本当に最後です。